■『機人』の神話は再び始まったか?
攻殻機動隊の新作「Solid State Society」を見て
久しぶりに記事を更新します。
ここ1年間は仕事が忙しくブログの更新は出来ませんでした。
「サムライ7」など気になるアニメもあったのですが、結局記事にもできずじまいでした。
時々2chの攻殻機動隊関連の掲示板を見たのですが、このブログが「なぜSAC 2ndはつまらないのか?」という話題の時に紹介されており、少し嬉しくなってしまいました。(ただ、「あのブログ(ここです)は文字ばっかりでつまらない」というレスには苦笑いしました。)
が、攻殻機動隊の新作:「ソリッド・ステイト・ソサイエティー」がリリースされたので書かないわけにもいかず、こうして久々パソコンに向かっています。
■「Solid State Society」(以下「SSS」)の感想(とりあえず)
まだ、体系だった感想は無いのでシーンごとに書きます。
・冒頭に現れる旅客機
「定番」とも言える、『【空を飛ぶ機械】で破られる物語』の演出ですね(「ゴースト・イン・ザ・シェル」「イノセンス」「SAC」「SAC2nd」では全てヘリコプターが冒頭シーンに登場しますが、今回はジェット機です。)これは物語の世界が重力(=現実)の壁を乗り越えた「神話世界」への誘い(いざない)です。冒頭が潜水艦や衛星軌道上とかでも面白いでしょうね。
冒頭からの導入はいい感じで、期待感を盛り上げてくれます。
・空港到着のシーン
トグサの乗っている、ニッサン・ムラーノ・リムジン(?)のデザインに感動しました。フロント・グリルに光る「NISSAN」エンブレムに、企業タイアップが攻殻世界のリアリティ・アップ(現在と近未来社会への「地続き」感覚)に大きく貢献していることにびっくりしました。これは演出効果がありますね。
昔見た「スパイ・ゲーム」というロバート・レッドフォードとブラッド・ピットの出ている映画で、CIA職員のR・レッドフォードが緑色のポルシェを乗り回していましたが、その格好いいこと格好いいこと。今回はバトーはムスタング(?)に乗っていましたが、主要キャラクタの自動車は全て企業とのコラボでやってみてもいいのでは???と思いました。
・オープニング(管野よう子さんの音楽が今回も素晴らしい!)
<続く>
2006年10月21日
『Solid State Society』を見て
【■「G..I.S」と「イノセンス」の謎解きの最新記事】
2005年06月30日
攻殻機動隊S.A.C2ndの舞台設定は過去のヨーロッパ
■攻殻機動隊S.A.C2ndの舞台設定は20世紀初頭のヨーロッパ?
しばらく攻殻機動隊シリーズの映画「ゴースト・イン・ザ・シェル」と「イノセンス」の元ネタ解説をしてきましたが、そろそろ再びスタンド・アローン・コンプレックス2nd GIG(以下.A.C2nd)の謎解きを再開したいと思います。
今までの『攻殻機動隊S.A.Cのシナリオに隠された【秘密】』の核心に迫っていきます。
(これまでの話を知りたい方は「カテゴリー」コーナーから参照してください。)
今回は、気付きそうで気付かない「S.A.C2ndの難民設定の特殊さ」から考えて見ます。
なぜ、日本政府によって慰災のために招待された「招慰難民」が廃墟のようなスラム街や、出島という隔離地域に住んでいるのでしょう?
SAC2ndでは「難民」が物語設定の中で重要な役割を果たしますが、実際描かれているのは「難民」ではなく、むしろ「移民」に近く、そして本質は「差別される人々」として描かれているのです。
結論から言ってしまうと、SAC2ndの舞台は第3次世界大戦後の日本となっていますが、実は第2次世界大戦前のヨーロッパの社会状況が元になっています。
このことは、SAC2ndの主要テーマである「難民」に関する設定の不思議さからはっきりと見て取ることが出来ます。
■「難民」の描かかれ方が異様に不自然なSAC2nd
SAC2nd内で難民問題が取り上げられていることは周知のことですが、実は、あの難民の取り扱い方は全然リアリティがありません。あれは現実離れした描かれ方なのです。(「現実」とは実際の西側先進諸国の難民受け入れ施策のことです。)
私は何年か前にソマリア難民を受け入れていたドイツに行ったのですが、そこでは難民を「居住区」の中に押し込めるようなことはしていませんでした。ドイツでは各市町村に難民が割り当てられ、ドイツ社会で自立・共存できるような政策が取られています。
ですがこれはドイツに限らず、現在の先進国内では当たり前のことで、難民とはいえ専用の居住区を設ける「隔離政策」のようなことを取ることはありません。
かつて日本でも、少数ですがベトナム難民を受け入れたことがありましたが、出島のような居住区に押し込めることはしませんでした。
SAC2ndの世界では、難民は自分達の専用居住区を与えられています。
その代表が長崎の出島ですが、あの設定は「現在の先進国の難民受け入れの施策」からすれば全く異様です。あの難民の描き方は、後に出てきますがまるで「ゲットー」です。
更に、第1話の中国大使館占拠事件でトグサが「招き入れた難民も、最初は安価な労働力として歓迎されたが・・・」と言っていますが、「招き入れた難民」が労働力として歓迎されたなら、どうして「難民キャンプ」や「難民居住区」という設定が必要なのでしょう?
現在日本でも南米から、日系人を安価な労働力として招待していますが、彼らを特殊な居住区などに押し込めたりしていません。各地の小学校は苦労しながら沢山の異文化圏の子供を受け入れています。
ヨーロッパ諸国でも、イランなどから沢山の安価な労働力を移民として受け入れましたが、決して特殊な居住区などに押し込めたりもしません。
「難民であれ、移民であれ、出島や難民居住区といった居住の制限をすることは基本的人権の侵害になるので行わない」これが現在の常識なのです。(このことを脚本担当者が知らなかったとしたらかなり不自然です。)
ちなみにS.A.C2ndでは「難民キャンプ」なる言葉も出てきますが、S.A.C2ndの難民とは「招慰難民」です。「招待した難民」がなぜ、紛争地域等の国境沿いにある避難民用の「難民キャンプ」に収容されているのでしょう?
実は「難民問題」などと言いつつ、物語内での扱い方は実質的に「移民」なのです。この設定の秘密は実に巧妙に隠されており、見る人は「ああ、難民てのは、こういうものなんだな」と思ってしまいます。
ですが、実は登場人物の台詞に現れる言葉上の難民政策解説と、描かれている実際の難民政策の姿は全く異なるのです。
ここに、この物語の設定の秘密があります。そして製作者がなぜ「難民」を設定したのかその真意が見えてきます。
■「招慰難民」という設定で実際描かれているのは「差別される人々」
さて、攻殻S.A.C2ndに「描かれている世界そのもの」から考えて見ましょう。物語に登場する台詞や製作者のコメントはとりあえず脇においておきます。
実際描かれている「招慰難民」とは「出島」や「難民居住区」(キャンプ)といった居住制限を受け、日本国民からはあくまで「難民」として認識される「部外者」扱いの存在です。出島という設定自体が「難民隔離政策」の象徴しています。よく考えればかなり非人道的な設定なのです。
そして、描かれる招慰難民は所得水準は低く、教育などもろくすっぽ受けていなさそうです。一部成功者がいましたが、個別の11人に暗殺されてしまいます。招慰難民が一般市民に混ざって、共同体として生活しているという「現在の常識的な難民政策」は全く描かれていません。
更におかしいのは、難民居住区が出島を除けばほとんど「廃墟」「戦争の被災したままの都市」として描かれているところです。
「潜在熱源」で難民が住む旧首都も、「天敵」で描かれる地域も、全て復興されてない結局「スラム」なのです。
先にも書きましたが、日本が政策として受け入れた「招慰難民」がなぜこんなスラムまがいの場所に住むのか?政府は住まわせるのか?
やはり台詞で語られる状況と実際に描かれる世界は大きく食い違っているのです。
これも実に巧妙に隠され、演出されていますが、結局「招慰難民」として描かれている人々の本質は、「差別される人々」なのです。
ここで、出島や難民居住区を「ゲットー」、難民を「ユダヤ人」としてみましょう。
すると、SAC2ndで描かれている状況は第2次世界大戦前のヨーロッパ(特にドイツ)に極めてよく似ているのです。
物語の後半で難民居住区は、ナチ党が迫害を本格化させた時のように、いつの間にか閉鎖されてしまいます。(なお、同じような状況は、パレスチナ人やクルド人のように現代の中東地域でも見られます。)
<SAC2ndの世界とWW2前のドイツの比較>
こうして、SAC2ndの社会状況と恐らく製作者が意図したであろう第2次世界大戦前夜のドイツの社会状況を比較してみると非常に似通っているのが分かります。
つまり、SAC2ndの世界は第2次世界大戦前の中部ヨーロッパの状況を現代に置き換えた可能性があるのです。招慰難民は「ユダヤ系の人々」(あるいはジプシー)、難民居住地域は「ゲットー」という訳です。
ナチスは社会の貧しさを全てユダヤ人のせいにすることで世論を操作して自分達の権力を強化し、最後には「最終的解決」(ホロコースト)を行いますが、SAC2ndの世界では財政赤字や世情不安を難民のせいにするように世論を操作・対立を悪化させ、権力を奪取した後は核によって虐殺しようとします。こうして一連の過程も、とてもよく似ているのです。
もちろん、これだけでSAC2ndの元型が過去のドイツだと断定するのは少し飛躍があります。こうした状況は「不安定な社会が抱える状況」として全世界的なものだからです。
ただし、上の表では重要な要素を抜いています。それは「ヒトラー」の存在です。
「合田一人」(ゴーダ)の役回りこそが「ヒトラー」に該当し、「製作者がドイツの社会状況をSAC2の舞台設定に重ねた」という一番の論拠になるのですが、これについては後日お話しましょう。
(「合田一人」を音読みすれば「ゴウダ・カズンド」ですが、訓読みすれば「アイダ・ヒトリ」です。「アドルフ・ヒトラー」と似ていませんか?これは冗談半分ですが。)
■「個別」主義とは「差別」主義の言い換え
さて、最後に謎の思想「個別主義」について考えて見ます。
「個別主義」とはSAC2ndになって初めて現れたキーワードですが、個別主義とは何でしょうか?
結局「社会を変えるのに、政党などの集団行動ではなく、個人行動を選ぶ」というような意味合いでしか捉えられません。
実のところ、SAC2ndで描かれる「個別主義」は「思想」でも「主義」でもなく、単に「行動手法」なのです。「個別主義」とは、そもそも主義などと呼べるものではないのです。
(禅寺での茅葺首相襲撃の際に、クゼが思想についていろいろ独白するシーンがありますがあれも訳が分かりません。能と革命を同列に扱う理論でしたが、単なる独善としか思えない「主義」と呼べるものでありません。)
こんなことは製作者自身が、ストーリーを練る段階で気づくはずです。単なる「行動手法」を「主義」として設定した理由は何でしょうか?
それは「個別主義者」という訳の分からない論理を並べて、結局は殺人を犯すテロリストの動機が「差別」にあることを暗示したかったからなのでしょう。個別主義者を名乗る連中は結局「差別主義者」なのです。「個別主義」などという思想はそもそもなく、単なる「差別主義」を言い換えただけなのです。
謎の行動原理を取る個別主義者も、差別主義者と言い換えれば全ての行動(SAC2ndでの描かれ方)に一貫性があります。
結局、クゼ以外の彼らが行ったのは招慰難民として描かれる「被差別の人々」や外国人(第1話の中国大使館襲撃事件)をテロによって殺すことだけなのです。
■SAC2ndのテーマの本質は「差別から始まる憎悪の連鎖」??
「差別感情」「差別意識」が「憎悪の連鎖」を引き起こす為のトリガーなのは歴史を見れば明らかなことです。この攻殻SACシリーズの一つのテーマは「戦争」だと、神山監督が語っていましたが、戦争を起こすきっかけの一つが差別にあるのは間違いありません。
世界中で頻発する紛争などのほとんどが「民族対立」という差別です。9.11(米国同時多発テロ)も宗教による差別感情が原因の一つです。
戦争という「憎悪の連鎖」の最終局面へと誘うために、一部の人間は人々に潜在する差別感情(あるいは被差別感情)を必ず煽ります。
もちろんSAC2ndでもその仮定がありありと描かれています。「個別主義者」が火をつけて「国民の差別意識」と「招慰難民の被差別意識」を盛んに煽りたて結局は政治を動かし戦争へと突入していきます。
SAC2ndで製作者が描きたかったのはこの「差別から始まる憎悪の連鎖」なのでしょうか?
「実は違うのではないか?」と私は思います。
このことは福岡電波塔で「個別の11人」(差別主義者)達が、蜥蜴の尻尾きりのように殺されてしまうことや、物語の後半では「個別の11人事件」がすっかりなりを潜めてしまうことからも分かります。
確かに「差別から始まる憎悪の連鎖」は一つのテーマですが、SAC2ndでは更に奥にまで踏み込んでもう一つの、あるテーマを描こうとしているのです。
それは「差別による憎悪の連鎖」も結局手段に過ぎないという、更に「別の動機」に関する物語です。これについては次回お話します。
しばらく攻殻機動隊シリーズの映画「ゴースト・イン・ザ・シェル」と「イノセンス」の元ネタ解説をしてきましたが、そろそろ再びスタンド・アローン・コンプレックス2nd GIG(以下.A.C2nd)の謎解きを再開したいと思います。
今までの『攻殻機動隊S.A.Cのシナリオに隠された【秘密】』の核心に迫っていきます。
(これまでの話を知りたい方は「カテゴリー」コーナーから参照してください。)
今回は、気付きそうで気付かない「S.A.C2ndの難民設定の特殊さ」から考えて見ます。
なぜ、日本政府によって慰災のために招待された「招慰難民」が廃墟のようなスラム街や、出島という隔離地域に住んでいるのでしょう?
SAC2ndでは「難民」が物語設定の中で重要な役割を果たしますが、実際描かれているのは「難民」ではなく、むしろ「移民」に近く、そして本質は「差別される人々」として描かれているのです。
結論から言ってしまうと、SAC2ndの舞台は第3次世界大戦後の日本となっていますが、実は第2次世界大戦前のヨーロッパの社会状況が元になっています。
このことは、SAC2ndの主要テーマである「難民」に関する設定の不思議さからはっきりと見て取ることが出来ます。
■「難民」の描かかれ方が異様に不自然なSAC2nd
SAC2nd内で難民問題が取り上げられていることは周知のことですが、実は、あの難民の取り扱い方は全然リアリティがありません。あれは現実離れした描かれ方なのです。(「現実」とは実際の西側先進諸国の難民受け入れ施策のことです。)
私は何年か前にソマリア難民を受け入れていたドイツに行ったのですが、そこでは難民を「居住区」の中に押し込めるようなことはしていませんでした。ドイツでは各市町村に難民が割り当てられ、ドイツ社会で自立・共存できるような政策が取られています。
ですがこれはドイツに限らず、現在の先進国内では当たり前のことで、難民とはいえ専用の居住区を設ける「隔離政策」のようなことを取ることはありません。
かつて日本でも、少数ですがベトナム難民を受け入れたことがありましたが、出島のような居住区に押し込めることはしませんでした。
SAC2ndの世界では、難民は自分達の専用居住区を与えられています。
その代表が長崎の出島ですが、あの設定は「現在の先進国の難民受け入れの施策」からすれば全く異様です。あの難民の描き方は、後に出てきますがまるで「ゲットー」です。
更に、第1話の中国大使館占拠事件でトグサが「招き入れた難民も、最初は安価な労働力として歓迎されたが・・・」と言っていますが、「招き入れた難民」が労働力として歓迎されたなら、どうして「難民キャンプ」や「難民居住区」という設定が必要なのでしょう?
現在日本でも南米から、日系人を安価な労働力として招待していますが、彼らを特殊な居住区などに押し込めたりしていません。各地の小学校は苦労しながら沢山の異文化圏の子供を受け入れています。
ヨーロッパ諸国でも、イランなどから沢山の安価な労働力を移民として受け入れましたが、決して特殊な居住区などに押し込めたりもしません。
「難民であれ、移民であれ、出島や難民居住区といった居住の制限をすることは基本的人権の侵害になるので行わない」これが現在の常識なのです。(このことを脚本担当者が知らなかったとしたらかなり不自然です。)
ちなみにS.A.C2ndでは「難民キャンプ」なる言葉も出てきますが、S.A.C2ndの難民とは「招慰難民」です。「招待した難民」がなぜ、紛争地域等の国境沿いにある避難民用の「難民キャンプ」に収容されているのでしょう?
実は「難民問題」などと言いつつ、物語内での扱い方は実質的に「移民」なのです。この設定の秘密は実に巧妙に隠されており、見る人は「ああ、難民てのは、こういうものなんだな」と思ってしまいます。
ですが、実は登場人物の台詞に現れる言葉上の難民政策解説と、描かれている実際の難民政策の姿は全く異なるのです。
ここに、この物語の設定の秘密があります。そして製作者がなぜ「難民」を設定したのかその真意が見えてきます。
■「招慰難民」という設定で実際描かれているのは「差別される人々」
さて、攻殻S.A.C2ndに「描かれている世界そのもの」から考えて見ましょう。物語に登場する台詞や製作者のコメントはとりあえず脇においておきます。
実際描かれている「招慰難民」とは「出島」や「難民居住区」(キャンプ)といった居住制限を受け、日本国民からはあくまで「難民」として認識される「部外者」扱いの存在です。出島という設定自体が「難民隔離政策」の象徴しています。よく考えればかなり非人道的な設定なのです。
そして、描かれる招慰難民は所得水準は低く、教育などもろくすっぽ受けていなさそうです。一部成功者がいましたが、個別の11人に暗殺されてしまいます。招慰難民が一般市民に混ざって、共同体として生活しているという「現在の常識的な難民政策」は全く描かれていません。
更におかしいのは、難民居住区が出島を除けばほとんど「廃墟」「戦争の被災したままの都市」として描かれているところです。
「潜在熱源」で難民が住む旧首都も、「天敵」で描かれる地域も、全て復興されてない結局「スラム」なのです。
先にも書きましたが、日本が政策として受け入れた「招慰難民」がなぜこんなスラムまがいの場所に住むのか?政府は住まわせるのか?
やはり台詞で語られる状況と実際に描かれる世界は大きく食い違っているのです。
これも実に巧妙に隠され、演出されていますが、結局「招慰難民」として描かれている人々の本質は、「差別される人々」なのです。
ここで、出島や難民居住区を「ゲットー」、難民を「ユダヤ人」としてみましょう。
すると、SAC2ndで描かれている状況は第2次世界大戦前のヨーロッパ(特にドイツ)に極めてよく似ているのです。
物語の後半で難民居住区は、ナチ党が迫害を本格化させた時のように、いつの間にか閉鎖されてしまいます。(なお、同じような状況は、パレスチナ人やクルド人のように現代の中東地域でも見られます。)
<SAC2ndの世界とWW2前のドイツの比較>
| 攻殻SAC2ndの世界 | 第2次世界大戦前のドイツ |
| 未来の世界大戦後の日本 | 第1次世界大戦後のドイツ |
| 招慰難民 (実質は被差別民として描かれる) | ユダヤ人 |
| 難民居住地 | ゲットー(スラム) |
| 難民が財政悪化(増税)の元凶という風潮 | 「全てユダヤ人が悪い」という ナチの扇動に醸成された世論 |
| 核による出島の無条件攻撃 | 大量虐殺(ホロコースト) |
| 政治に相変わらず無関心な一般市民 | 強制収用されたユダヤ人がどうなるのか 全く知らなかった当時のドイツ市民 |
こうして、SAC2ndの社会状況と恐らく製作者が意図したであろう第2次世界大戦前夜のドイツの社会状況を比較してみると非常に似通っているのが分かります。
つまり、SAC2ndの世界は第2次世界大戦前の中部ヨーロッパの状況を現代に置き換えた可能性があるのです。招慰難民は「ユダヤ系の人々」(あるいはジプシー)、難民居住地域は「ゲットー」という訳です。
ナチスは社会の貧しさを全てユダヤ人のせいにすることで世論を操作して自分達の権力を強化し、最後には「最終的解決」(ホロコースト)を行いますが、SAC2ndの世界では財政赤字や世情不安を難民のせいにするように世論を操作・対立を悪化させ、権力を奪取した後は核によって虐殺しようとします。こうして一連の過程も、とてもよく似ているのです。
もちろん、これだけでSAC2ndの元型が過去のドイツだと断定するのは少し飛躍があります。こうした状況は「不安定な社会が抱える状況」として全世界的なものだからです。
ただし、上の表では重要な要素を抜いています。それは「ヒトラー」の存在です。
「合田一人」(ゴーダ)の役回りこそが「ヒトラー」に該当し、「製作者がドイツの社会状況をSAC2の舞台設定に重ねた」という一番の論拠になるのですが、これについては後日お話しましょう。
(「合田一人」を音読みすれば「ゴウダ・カズンド」ですが、訓読みすれば「アイダ・ヒトリ」です。「アドルフ・ヒトラー」と似ていませんか?これは冗談半分ですが。)
■「個別」主義とは「差別」主義の言い換え
さて、最後に謎の思想「個別主義」について考えて見ます。
「個別主義」とはSAC2ndになって初めて現れたキーワードですが、個別主義とは何でしょうか?
結局「社会を変えるのに、政党などの集団行動ではなく、個人行動を選ぶ」というような意味合いでしか捉えられません。
実のところ、SAC2ndで描かれる「個別主義」は「思想」でも「主義」でもなく、単に「行動手法」なのです。「個別主義」とは、そもそも主義などと呼べるものではないのです。
(禅寺での茅葺首相襲撃の際に、クゼが思想についていろいろ独白するシーンがありますがあれも訳が分かりません。能と革命を同列に扱う理論でしたが、単なる独善としか思えない「主義」と呼べるものでありません。)
こんなことは製作者自身が、ストーリーを練る段階で気づくはずです。単なる「行動手法」を「主義」として設定した理由は何でしょうか?
それは「個別主義者」という訳の分からない論理を並べて、結局は殺人を犯すテロリストの動機が「差別」にあることを暗示したかったからなのでしょう。個別主義者を名乗る連中は結局「差別主義者」なのです。「個別主義」などという思想はそもそもなく、単なる「差別主義」を言い換えただけなのです。
謎の行動原理を取る個別主義者も、差別主義者と言い換えれば全ての行動(SAC2ndでの描かれ方)に一貫性があります。
結局、クゼ以外の彼らが行ったのは招慰難民として描かれる「被差別の人々」や外国人(第1話の中国大使館襲撃事件)をテロによって殺すことだけなのです。
■SAC2ndのテーマの本質は「差別から始まる憎悪の連鎖」??
「差別感情」「差別意識」が「憎悪の連鎖」を引き起こす為のトリガーなのは歴史を見れば明らかなことです。この攻殻SACシリーズの一つのテーマは「戦争」だと、神山監督が語っていましたが、戦争を起こすきっかけの一つが差別にあるのは間違いありません。
世界中で頻発する紛争などのほとんどが「民族対立」という差別です。9.11(米国同時多発テロ)も宗教による差別感情が原因の一つです。
戦争という「憎悪の連鎖」の最終局面へと誘うために、一部の人間は人々に潜在する差別感情(あるいは被差別感情)を必ず煽ります。
もちろんSAC2ndでもその仮定がありありと描かれています。「個別主義者」が火をつけて「国民の差別意識」と「招慰難民の被差別意識」を盛んに煽りたて結局は政治を動かし戦争へと突入していきます。
SAC2ndで製作者が描きたかったのはこの「差別から始まる憎悪の連鎖」なのでしょうか?
「実は違うのではないか?」と私は思います。
このことは福岡電波塔で「個別の11人」(差別主義者)達が、蜥蜴の尻尾きりのように殺されてしまうことや、物語の後半では「個別の11人事件」がすっかりなりを潜めてしまうことからも分かります。
確かに「差別から始まる憎悪の連鎖」は一つのテーマですが、SAC2ndでは更に奥にまで踏み込んでもう一つの、あるテーマを描こうとしているのです。
それは「差別による憎悪の連鎖」も結局手段に過ぎないという、更に「別の動機」に関する物語です。これについては次回お話します。
2005年06月27日
凄い「イノセンス」がつまらない理由
■何となく分かった、「イノセンス」のつまらない理由
前回、イノセンスの元型が『ダンテの「神曲」』であることを書きましたが、イノセンスがつまらない理由はまさにそこにあるのです。
言葉では表現しづらいのですが、本屋で試しにダンテの神曲を読んでみてください。「神曲」は神の世界を描いた「壮大な物語」「究極の愛の話」ですが、あまり現代人が読んで面白い話ではありません。(この辺もイノセンスに良く似ています。)
なんとなくですが、あの有名な「ヨハネの黙示録」を読みおえた時の感想にも似ています。
なぜなら神曲は「夢」のような話であって、物語とは呼べない範疇に属するのです。この物語とは言えないような感覚は「イノセンス」を見た時の感想と実によく似ています。
■攻殻の映画第1作(ゴースト・イン・ザ・シェル)が面白かった訳
第1作目の「攻殻機動隊-Ghost in the shell-」(以下「GIS」)が面白い理由を簡単にいうと、
1、今までにないCGを利用した映像と、新しい音楽
2、コンピュータのという新しいシステムを介した人類の進化(個人の救済)という二つの独創的な要素があったことです。
第1作は、最初は単なるSFアクションものかと見ているうちに、話はどんどん別の様相を呈してきて、最後は主人公が人類の新しい進化への糸口を開くという、実にユニークな物語でした。
一見唐突とも思える話の展開が、次々と必然のように重なり壮大なラストを迎える全く「新しい神話」と言えるようなアニメでした。「こんなSFアニメは見たことがない」、そんな感想を誰もが持ったことと思います。
その他にも少佐やバトーなどが、とても魅力的に描かれていたことも大きな要因です。冷酷なまでに実務的でありながら悲壮なまでに本当の自分を探す少佐や、恋心を隠しつつ淡々と任務をこなすバトーはこれまでのアニメにはないキャラクターでした。
(6課の多脚戦車のハッチを空けようとして手を引きちぎる少佐のシーンはアニメ史に残る名場面・名演出です。)
もちろん極めて独創的な士郎正宗の原作があった訳ですが、その原作のよさを最大限に引き出し、世に知らしめたのが映画「GIS」だったのです。
多分、士郎正宗の原作を読んでもこれほど「攻殻機動隊」という作品に一般的なアニメ・ファンは魅了されないでしょう。現在の多くの攻殻ファンは、第1作によってこの世界に惹きつけられたのです。
映像も、物語も独創性の塊のような作品がGISでした。皮肉なことですが、イノセンスによってそれが実感されるのです。
■イノセンスはツギハギのコラージュ
では、イノセンスはどうでしょうか?
映像は本当に素晴らしいし、音楽も素晴らしいです。ですが、物語には独創性がありません。GISのような時代に深く結びついた世界観の変更もありません。
もし押井監督がダンテが謳いあげているような「世界を動かす愛」について語りたいのであれば、神曲そのものをアニメ化したほうがよほどその本質を捉えることができたでしょう。
ダンテの神曲では主人公(ダンテ)が「世界を動かす愛」へ気づくまでに、煉獄〜地獄という長い危険な旅路を歩みます。そして、天上編に至って初めて壮大な神のヴィジョンを見て「世界を動かす愛」に至ります。
「長く余りに暗い地獄への旅路の果てに始めて天上界へ至り、愛の存在を知る」という構成が神曲にはあるのですが、イノセンスは形式的にそれをまねているだけで、ダンテが辿った「暗い地獄への長い旅路」というプロセスがほとんどありません。
祭りのシーンやキムの屋敷の出来事などは、ダンテが神曲(煉獄・地獄編)で描いた濃密な世界に比べて軽く稚拙なのです。
また、その「地獄のめぐりの長いプロセス」の代わりに用いられたのが「人間機械論に基づく自分の存在の懐疑」ですが、それは余りに力不足の物語要素でした。理屈としてはつながるのですが、物語としては「世界を動かす愛」に匹敵する要素ではないのです。
そもそも、観客である現代人は「自分とは機械か?人形か?」などと悩む暇もないくらい、日常の雑事や人間関係に忙殺されているのが現実で、そのような「人間機械論」は単なる「哲学的な遊び、思考遊戯」ぐらいにしか感じられないのです。これでは面白い訳もありませんし、感動も出来ません。
テクニックや知識を極めた押井監督が陥ったワナなのかもしれません。
■ファンが見たかったものは?
ファンが見たかったのは、結局のところプロジェクト2501と融合した少佐がどうなったかということです。(実は、私が一番見たかったのもそこでした。)
ちなみに、融合後の少佐の顛末は士郎正宗のコミック「攻殻機動隊2」に書かれていますが、こちらでは第1作を更に展開した独創性に溢れる「新しい神話」が語られています。(原作はアニメ版とずいぶん味付けが違うので少し違和感があります。バトーの恋も語られません。)
イノセンスの作られ方だと、この後に原作「攻殻機動隊2」のアニメ版がそのまま来てもおかしくない構成ですので、現在噂されている攻殻映画の企画はもしかしたら「攻殻機動隊2」のアニメ化かもしれません。
TVアニメ(S.A.C3rd)、映画ともに攻殻第3作に期待したいところです。
前回、イノセンスの元型が『ダンテの「神曲」』であることを書きましたが、イノセンスがつまらない理由はまさにそこにあるのです。
言葉では表現しづらいのですが、本屋で試しにダンテの神曲を読んでみてください。「神曲」は神の世界を描いた「壮大な物語」「究極の愛の話」ですが、あまり現代人が読んで面白い話ではありません。(この辺もイノセンスに良く似ています。)
なんとなくですが、あの有名な「ヨハネの黙示録」を読みおえた時の感想にも似ています。
なぜなら神曲は「夢」のような話であって、物語とは呼べない範疇に属するのです。この物語とは言えないような感覚は「イノセンス」を見た時の感想と実によく似ています。
■攻殻の映画第1作(ゴースト・イン・ザ・シェル)が面白かった訳
第1作目の「攻殻機動隊-Ghost in the shell-」(以下「GIS」)が面白い理由を簡単にいうと、
1、今までにないCGを利用した映像と、新しい音楽
2、コンピュータのという新しいシステムを介した人類の進化(個人の救済)という二つの独創的な要素があったことです。
第1作は、最初は単なるSFアクションものかと見ているうちに、話はどんどん別の様相を呈してきて、最後は主人公が人類の新しい進化への糸口を開くという、実にユニークな物語でした。
一見唐突とも思える話の展開が、次々と必然のように重なり壮大なラストを迎える全く「新しい神話」と言えるようなアニメでした。「こんなSFアニメは見たことがない」、そんな感想を誰もが持ったことと思います。
その他にも少佐やバトーなどが、とても魅力的に描かれていたことも大きな要因です。冷酷なまでに実務的でありながら悲壮なまでに本当の自分を探す少佐や、恋心を隠しつつ淡々と任務をこなすバトーはこれまでのアニメにはないキャラクターでした。
(6課の多脚戦車のハッチを空けようとして手を引きちぎる少佐のシーンはアニメ史に残る名場面・名演出です。)
もちろん極めて独創的な士郎正宗の原作があった訳ですが、その原作のよさを最大限に引き出し、世に知らしめたのが映画「GIS」だったのです。
多分、士郎正宗の原作を読んでもこれほど「攻殻機動隊」という作品に一般的なアニメ・ファンは魅了されないでしょう。現在の多くの攻殻ファンは、第1作によってこの世界に惹きつけられたのです。
映像も、物語も独創性の塊のような作品がGISでした。皮肉なことですが、イノセンスによってそれが実感されるのです。
■イノセンスはツギハギのコラージュ
では、イノセンスはどうでしょうか?
映像は本当に素晴らしいし、音楽も素晴らしいです。ですが、物語には独創性がありません。GISのような時代に深く結びついた世界観の変更もありません。
もし押井監督がダンテが謳いあげているような「世界を動かす愛」について語りたいのであれば、神曲そのものをアニメ化したほうがよほどその本質を捉えることができたでしょう。
ダンテの神曲では主人公(ダンテ)が「世界を動かす愛」へ気づくまでに、煉獄〜地獄という長い危険な旅路を歩みます。そして、天上編に至って初めて壮大な神のヴィジョンを見て「世界を動かす愛」に至ります。
「長く余りに暗い地獄への旅路の果てに始めて天上界へ至り、愛の存在を知る」という構成が神曲にはあるのですが、イノセンスは形式的にそれをまねているだけで、ダンテが辿った「暗い地獄への長い旅路」というプロセスがほとんどありません。
祭りのシーンやキムの屋敷の出来事などは、ダンテが神曲(煉獄・地獄編)で描いた濃密な世界に比べて軽く稚拙なのです。
また、その「地獄のめぐりの長いプロセス」の代わりに用いられたのが「人間機械論に基づく自分の存在の懐疑」ですが、それは余りに力不足の物語要素でした。理屈としてはつながるのですが、物語としては「世界を動かす愛」に匹敵する要素ではないのです。
そもそも、観客である現代人は「自分とは機械か?人形か?」などと悩む暇もないくらい、日常の雑事や人間関係に忙殺されているのが現実で、そのような「人間機械論」は単なる「哲学的な遊び、思考遊戯」ぐらいにしか感じられないのです。これでは面白い訳もありませんし、感動も出来ません。
テクニックや知識を極めた押井監督が陥ったワナなのかもしれません。
■ファンが見たかったものは?
ファンが見たかったのは、結局のところプロジェクト2501と融合した少佐がどうなったかということです。(実は、私が一番見たかったのもそこでした。)
ちなみに、融合後の少佐の顛末は士郎正宗のコミック「攻殻機動隊2」に書かれていますが、こちらでは第1作を更に展開した独創性に溢れる「新しい神話」が語られています。(原作はアニメ版とずいぶん味付けが違うので少し違和感があります。バトーの恋も語られません。)
イノセンスの作られ方だと、この後に原作「攻殻機動隊2」のアニメ版がそのまま来てもおかしくない構成ですので、現在噂されている攻殻映画の企画はもしかしたら「攻殻機動隊2」のアニメ化かもしれません。
TVアニメ(S.A.C3rd)、映画ともに攻殻第3作に期待したいところです。
2005年06月23日
イノセンスはダンテの神曲
■イノセンスの元型は「神曲」
前回のブログでイノセンスを「救済の物語」と書きましたが、それもそのはず、イノセンスはダンテの「神曲」が元型だったのです。
そうすると、全ての謎が解けてしまうと同時に、なぜこの作品が「凄いアニメ」な反面、なぜ「つまらない」のかが分かってきます。
■なぜイノセンスがダンテの神曲なのか?
それは押井守監督自身が、北端(択捉経済特区)に行くバトーとトグサを「地獄巡り」とインタビューの中で語っているからです。
「地獄巡り」といえば、ダンテの神曲しかありません。
ほとんどの人は「ダンテの神曲」なんて読んだことがないのでピンと来ないかもしれません。私の場合は昔大江健三郎の「燃え上がる緑の木」という小説を読んだことがあるので、何となく知っていました。(大江健三郎の小説はダンテの神曲が沢山引用されているのです。)
このインタビューでの「地獄巡り」発言は、恐らく監督自身の意図的な「ネタばらし」なのでしょうね。実際あまりにもイノセンスは「分かりにくい話」だからで、理解のヒントを与えるつもりだったんでしょう。
既に公開から1年が過ぎましたが、インターネットで検索するとやはりこの「神曲が元型」という話は既に色々なサイトで取りざたされていました。皆同じように、きっと皆押井守監督の「地獄巡り」発言で気がついたんだと思います。
ちなみに神曲とイノセンスはどのように対応しているか簡単に書くと、
バトー =ダンテ (地獄めぐりをしたのち天国で死んだ恋人に会うダンテ本人)
トグサ =ヴィルジリオ (地獄めぐりをダンテと一緒にする同伴者)
草薙素子=ベアトリーチェ(ダンテの愛したかつての恋人)です。
ダンテは煉獄(軽い地獄)〜地獄(最後には魔王のすむ地の底)〜天国へと旅をしますが、これも煉獄(殺人事件の起こった日本)〜地獄(択捉経済特区とキムの家、ロクスソルスの船)〜天国(少佐との再会後鎮圧された船)と対応します。
■イノセンスの宣伝コピー「究極の愛」は恋愛の事じゃなかった
この映画が「分かりにくい」という感想が多いのももっともなことでしょう。ダンテの神曲も本当に分かりづらい話で、読み終わった後感じるのはイノセンスを見終わった時の感じによく似ています。
イノセンスの宣伝では「究極の愛の物語」というフレーズがよく用いられていました。これを聞いてファンが想像するのは「バトーと素子の愛」ということは自然なことです。きっと第1作の「ゴースト・イン・ザ・シェル」で叶わなかったバトーの想いが、イノセンスで叶うと予想します。
ですが、実際は恋愛というには余りに淡々と物語が進んでいき結局二人ははすれ違い、宣伝コピーである「究極の愛の物語」はなんだか不発に終わってしまいます。「これが究極の愛の物語なの?」って感じなのです。
ところが、ダンテの神曲がイノセンスの元型(モチーフ)であるとすれば簡単に理解できるのです。「究極の愛」とは人間同士の恋愛を意味した言葉ではなくて、「神の愛」みたいなものだからです。
ダンテの神曲のラストに有名な文章があります。
「されどわが願ひと思ひとは宛然/一様に動く輪の如く、はや愛に廻らさる/日やそのほかのすべての星を動かす愛に」
これは愛を「恋愛」のみではなく「世界を動かす原理」のようなものとして捉えている言葉です。ネットに融合した少佐がバトーとの別れ際に語る「あなたがネットに接続する時、いつも私はあなたのそばにいるわ」という台詞の本当の意味がここにあるのです。
「星をも動かす愛」によって世界が満ちているのなら、バトーが常にネット(電子の宇宙)に接続するとき少佐はそこに存在するのです。少佐は最後に確かに誠実に「自分の愛」をバトーに語っていますが、それは神と融合した存在が語る「愛」なのです。
そして、ここに初めてテーマの一貫性が見て取れます。
■映画の中で唯一示される「神曲」の暗示
さて、この「イノセンスの元型がダンテの神曲であること」は実に巧妙に隠されています。
恐らくインタビューで監督自身がヒントを漏らさなければ関係者でなければ分からなかったでしょう。(「究極の愛」という言葉を宣伝に使わせたことで、恐らく関係者向けの資料にはこのダンテの神曲がモチーフである事は伝わっていたのでしょう。)
ですが、唯一「神曲」のイメージがかなり露骨に暗示されているシーンがあります。
それは、少女を救出し少佐が去った後、トグサの家のシーンとの間に挿入される「かもめが飛ぶロクスソルスの工場船」のカットです。
ここでは夕焼けで赤く染まった海にロクスソルスのプラント船が浮かび、その周りをカモメが渦を巻くように飛ぶ様子が描かれていますが、これは神曲で有名な「天使が渦を巻いて飛ぶイメージ」そのままです。
「カモメが渦を巻いて飛ぶこと」は不自然です。カモメは渡鳥や鳩ではないので、ロート製薬のCMのように綺麗に集団を作って飛ぶことなどありませんし、そのような描かれ方をするシンボルではないのです。でも、このシーンではカモメが綺麗に群れを作り、しかも複数の群れが綺麗に渦を巻いて飛んでいます。明らかに意図的なのです。
私も最初このシーンを見た時、この描写の不自然さに違和感を感じるとともに、ドレの描いた有名な神曲の挿絵を思い出しました。「なんかカモメは天使のように描かれているなぁ」と感じたものです。)
恐らく監督が、ダンテが神曲(天上編)の中で描いた「感動的な天使の群れ」のイメージを挿入したのでしょう。ドレの挿絵を見た人ならピンと来るように仕組んだのかもしれません。
■結局「イノセンス」って何なの?
結局、「映画イノセンス」とは何なのでしょうか?
明らかに士郎正宗原作の攻殻とは違います。第1作のGISとも違います。
何が違うのでしょうか?
多分、背後に流れる「強烈にキリスト教的なモチーフが織り込まれた世界観」がこの作品に独特の異質感を与える原因なのでしょう。(GISが海外で評価されたので、海外の観客をメイン・ターゲットにしたのでしょうか?)
イノセンスは今のままでも十分素晴らしい作品だと思いますが、なんだか「?」マークがつく作品です。そしてその「?」が魅力であるのも事実です。
でも、モチーフがダンテの神曲であるなら、この作品が書かれた13世紀の世界観をそのまま引用されたことになり、世界観的には新しいものは全くありません。
結局、現代文明を舞台にした「神曲の焼き直し」なのです。もう一つのテーマである「人間機械論」も、結局のところ「自分って何?」というアイデンティティのお定まりのテーマで、これも映画の中では答えは出ていません。
「人間機械論=自分の存在への懐疑」への回答が「ダンテの神曲で語られたもの」なのかも知れませんが、それはあまりにツギハギすぎてオリジナリティがないのです。それがこの映画の「つまらなさ」の原因です。
肯定的イノセンス評の多くは「映像が素晴らしい」であり、「おもしろかった」ではありません。「面白かったか?」「感動したか?」と聞かれれば、「なんか内容は難しくてよく分からない」が大方のようですし、私もそうです。
押井監督は自分でも未消化な大テーマ(愛)を選び、回答は過去のもののツギハギ(ダンテの神曲)で示してしまったのではないかと最近私は思ってしまいます。
■イノセンスには「霊感」がない
イノセンスは素晴らしい工芸品のような作品で、映像にしてもシナリオにしても「最高のテクニックの集合体」ですが、霊感がないのです。これまでの「世界観をひっくり返すような、世界観の再構成がない」と言ったらよいのでしょうか?
GISでは「電脳というコンピューターを媒介にした神との融合」という、ものすごい世界観の再構成、独創的なアイデアがありましたが(残念ながらオリジナルは士郎正宗のものです)イノセンスにはありません。回答はダンテの神曲なのです。
ある意味全て借り物で作られたコラージュだから、イノセンスは「凄い」「おもしろい」作品でありながら「なんだかつまらない」となるのでしょう。(押井監督自身の考え・アイデアでなければ深くテーマを掘り下げることなど出来ないし、霊感もやってこないからです。)
イノセンスが映像や、特にシナリオで手法的にのみ深みを出そうとして失敗したのは、ある意味「攻殻SAC2nd GIG」によく似ているような気がします。
テクニックや手法だけに固執すると「アニメの精霊」は逃げていってしまうのかもしれません。
前回のブログでイノセンスを「救済の物語」と書きましたが、それもそのはず、イノセンスはダンテの「神曲」が元型だったのです。
そうすると、全ての謎が解けてしまうと同時に、なぜこの作品が「凄いアニメ」な反面、なぜ「つまらない」のかが分かってきます。
■なぜイノセンスがダンテの神曲なのか?
それは押井守監督自身が、北端(択捉経済特区)に行くバトーとトグサを「地獄巡り」とインタビューの中で語っているからです。
「地獄巡り」といえば、ダンテの神曲しかありません。
ほとんどの人は「ダンテの神曲」なんて読んだことがないのでピンと来ないかもしれません。私の場合は昔大江健三郎の「燃え上がる緑の木」という小説を読んだことがあるので、何となく知っていました。(大江健三郎の小説はダンテの神曲が沢山引用されているのです。)
このインタビューでの「地獄巡り」発言は、恐らく監督自身の意図的な「ネタばらし」なのでしょうね。実際あまりにもイノセンスは「分かりにくい話」だからで、理解のヒントを与えるつもりだったんでしょう。
既に公開から1年が過ぎましたが、インターネットで検索するとやはりこの「神曲が元型」という話は既に色々なサイトで取りざたされていました。皆同じように、きっと皆押井守監督の「地獄巡り」発言で気がついたんだと思います。
ちなみに神曲とイノセンスはどのように対応しているか簡単に書くと、
バトー =ダンテ (地獄めぐりをしたのち天国で死んだ恋人に会うダンテ本人)
トグサ =ヴィルジリオ (地獄めぐりをダンテと一緒にする同伴者)
草薙素子=ベアトリーチェ(ダンテの愛したかつての恋人)です。
ダンテは煉獄(軽い地獄)〜地獄(最後には魔王のすむ地の底)〜天国へと旅をしますが、これも煉獄(殺人事件の起こった日本)〜地獄(択捉経済特区とキムの家、ロクスソルスの船)〜天国(少佐との再会後鎮圧された船)と対応します。
■イノセンスの宣伝コピー「究極の愛」は恋愛の事じゃなかった
この映画が「分かりにくい」という感想が多いのももっともなことでしょう。ダンテの神曲も本当に分かりづらい話で、読み終わった後感じるのはイノセンスを見終わった時の感じによく似ています。
イノセンスの宣伝では「究極の愛の物語」というフレーズがよく用いられていました。これを聞いてファンが想像するのは「バトーと素子の愛」ということは自然なことです。きっと第1作の「ゴースト・イン・ザ・シェル」で叶わなかったバトーの想いが、イノセンスで叶うと予想します。
ですが、実際は恋愛というには余りに淡々と物語が進んでいき結局二人ははすれ違い、宣伝コピーである「究極の愛の物語」はなんだか不発に終わってしまいます。「これが究極の愛の物語なの?」って感じなのです。
ところが、ダンテの神曲がイノセンスの元型(モチーフ)であるとすれば簡単に理解できるのです。「究極の愛」とは人間同士の恋愛を意味した言葉ではなくて、「神の愛」みたいなものだからです。
ダンテの神曲のラストに有名な文章があります。
「されどわが願ひと思ひとは宛然/一様に動く輪の如く、はや愛に廻らさる/日やそのほかのすべての星を動かす愛に」
これは愛を「恋愛」のみではなく「世界を動かす原理」のようなものとして捉えている言葉です。ネットに融合した少佐がバトーとの別れ際に語る「あなたがネットに接続する時、いつも私はあなたのそばにいるわ」という台詞の本当の意味がここにあるのです。
「星をも動かす愛」によって世界が満ちているのなら、バトーが常にネット(電子の宇宙)に接続するとき少佐はそこに存在するのです。少佐は最後に確かに誠実に「自分の愛」をバトーに語っていますが、それは神と融合した存在が語る「愛」なのです。
そして、ここに初めてテーマの一貫性が見て取れます。
■映画の中で唯一示される「神曲」の暗示
さて、この「イノセンスの元型がダンテの神曲であること」は実に巧妙に隠されています。
恐らくインタビューで監督自身がヒントを漏らさなければ関係者でなければ分からなかったでしょう。(「究極の愛」という言葉を宣伝に使わせたことで、恐らく関係者向けの資料にはこのダンテの神曲がモチーフである事は伝わっていたのでしょう。)
ですが、唯一「神曲」のイメージがかなり露骨に暗示されているシーンがあります。
それは、少女を救出し少佐が去った後、トグサの家のシーンとの間に挿入される「かもめが飛ぶロクスソルスの工場船」のカットです。
ここでは夕焼けで赤く染まった海にロクスソルスのプラント船が浮かび、その周りをカモメが渦を巻くように飛ぶ様子が描かれていますが、これは神曲で有名な「天使が渦を巻いて飛ぶイメージ」そのままです。
「カモメが渦を巻いて飛ぶこと」は不自然です。カモメは渡鳥や鳩ではないので、ロート製薬のCMのように綺麗に集団を作って飛ぶことなどありませんし、そのような描かれ方をするシンボルではないのです。でも、このシーンではカモメが綺麗に群れを作り、しかも複数の群れが綺麗に渦を巻いて飛んでいます。明らかに意図的なのです。
私も最初このシーンを見た時、この描写の不自然さに違和感を感じるとともに、ドレの描いた有名な神曲の挿絵を思い出しました。「なんかカモメは天使のように描かれているなぁ」と感じたものです。)
恐らく監督が、ダンテが神曲(天上編)の中で描いた「感動的な天使の群れ」のイメージを挿入したのでしょう。ドレの挿絵を見た人ならピンと来るように仕組んだのかもしれません。
■結局「イノセンス」って何なの?
結局、「映画イノセンス」とは何なのでしょうか?
明らかに士郎正宗原作の攻殻とは違います。第1作のGISとも違います。
何が違うのでしょうか?
多分、背後に流れる「強烈にキリスト教的なモチーフが織り込まれた世界観」がこの作品に独特の異質感を与える原因なのでしょう。(GISが海外で評価されたので、海外の観客をメイン・ターゲットにしたのでしょうか?)
イノセンスは今のままでも十分素晴らしい作品だと思いますが、なんだか「?」マークがつく作品です。そしてその「?」が魅力であるのも事実です。
でも、モチーフがダンテの神曲であるなら、この作品が書かれた13世紀の世界観をそのまま引用されたことになり、世界観的には新しいものは全くありません。
結局、現代文明を舞台にした「神曲の焼き直し」なのです。もう一つのテーマである「人間機械論」も、結局のところ「自分って何?」というアイデンティティのお定まりのテーマで、これも映画の中では答えは出ていません。
「人間機械論=自分の存在への懐疑」への回答が「ダンテの神曲で語られたもの」なのかも知れませんが、それはあまりにツギハギすぎてオリジナリティがないのです。それがこの映画の「つまらなさ」の原因です。
肯定的イノセンス評の多くは「映像が素晴らしい」であり、「おもしろかった」ではありません。「面白かったか?」「感動したか?」と聞かれれば、「なんか内容は難しくてよく分からない」が大方のようですし、私もそうです。
押井監督は自分でも未消化な大テーマ(愛)を選び、回答は過去のもののツギハギ(ダンテの神曲)で示してしまったのではないかと最近私は思ってしまいます。
■イノセンスには「霊感」がない
イノセンスは素晴らしい工芸品のような作品で、映像にしてもシナリオにしても「最高のテクニックの集合体」ですが、霊感がないのです。これまでの「世界観をひっくり返すような、世界観の再構成がない」と言ったらよいのでしょうか?
GISでは「電脳というコンピューターを媒介にした神との融合」という、ものすごい世界観の再構成、独創的なアイデアがありましたが(残念ながらオリジナルは士郎正宗のものです)イノセンスにはありません。回答はダンテの神曲なのです。
ある意味全て借り物で作られたコラージュだから、イノセンスは「凄い」「おもしろい」作品でありながら「なんだかつまらない」となるのでしょう。(押井監督自身の考え・アイデアでなければ深くテーマを掘り下げることなど出来ないし、霊感もやってこないからです。)
イノセンスが映像や、特にシナリオで手法的にのみ深みを出そうとして失敗したのは、ある意味「攻殻SAC2nd GIG」によく似ているような気がします。
テクニックや手法だけに固執すると「アニメの精霊」は逃げていってしまうのかもしれません。



